宗旨
宗派名 真宗大谷派
宗祖 親鸞聖人
本尊 阿弥陀如来
正依の経典 仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経
宗祖の主著 顕浄土真実教行証文類 (教行信証)
本山 真宗本廟(東本願寺) 〒600-8505京都市下京区烏丸通七条上る
開基
三河三ケ寺のひとつ、愛知県岡崎市の名刹、勝鬘寺の仏弟子であった慶順法師が静岡へ来て、1603(慶長8)年、現在の地に常光寺を建立しました。1940年には静岡大火、1945年には第二次世界大戦で5年の間に2度全焼、という苦難に遭いながらも、過去帳と仏様だけをお守りして400年以上にわたり、この地にて親鸞聖人の教えをお伝えし続けております。
直近4代の住職
・10代賚雲(江戸~明治) 徳川慶喜の警護のため静岡へ来た、江戸火消の親分、新門辰五郎を寄宿させる。
・11代顕明(明治~大正) 日本で最初の保護司会の礎、「勧善会」を金原明善と共に常光寺に設立。
・12代顕弘(大正~昭和31年) 鈴木 弘。東京大学卒業、恩賜の銀時計授与。ドイツへ西洋哲学留学、フッサールに師事。大谷大学哲学科教授、静岡県立短期大学初代学長。勲四等叙勲。
・13代祐敏 (昭和33年~平成20年) 鈴木 敏。新潟市泉性寺より常光寺へ。教誨師として尽力、勲五等瑞宝章叙勲。
親鸞聖人とは
1173(承安3)年、京都の東南、日野の地に、親鸞聖人は誕生されました。源平の戦い、飢饉や疫病で死者が町にあふれる、僧兵の争いによる大寺院の焼失、といった動乱の時代です。
1181(養和1)年、親鸞聖人は9歳で出家されます。親鸞聖人が得度を頼んだ寺は、夜遅いからと延期しようとしましたが、それに対して親鸞聖人は、「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」、という歌一首を詠んだと 伝わっています。
「桜は明日見ればいいという心が仇になって、桜を見ることができないことがある。夜中に嵐が吹かないとどうして言えますか?」
得度を明日に延ばしたくないというこの句は、明日の命があるかどうかもわからない当時の厳しい時代に、出家を延期させられて仏法の学びを遅らせたくない、という親鸞聖人の幼いながらも強い志を、後世の人が偲んだものです。
出家した親鸞聖人は、比叡山で9歳から29歳までの20年間、厳しい修行に励み、煩悩を断ち覚りを得る事をめざしました。しかしどれほど努力しても煩悩から抜け出せない、生死の苦から離れる道を見い出すことができないと苦悩され、辛い時間がただ空しく過ぎていきます。
1201(建仁元)年、29歳の時、聖人は比叡山を下り、京都中心部にある聖徳太子建立の六角堂に百日間こもり、95日目、親鸞聖人は救世観音菩薩のお告げをお聞きになります。戒律を守れない者でも、どんな人でも歩むことのできる仏道がある、それを人々にひろめなさい、と。ここで親鸞聖人は、浄土往生の教えを説いている、法然上人のもとを訪ねることを決意しました。
京都東山において、「ただ念仏して、弥陀にたすけまいらすべし」という、法然上人の教えとの出遇いで、ついに生き方が決まったのです。煩悩をかかえたままで、全ての人が分け隔てなく共に救われていく、それこそが親鸞聖人の求めていた道でした。自らの力を頼りにして修行する道、自力を捨て、阿弥陀如来が救って下さる願い、他力を頼りに生きる教えです。
法然上人の教えは、民衆、武士、貴族、男女を問わず大勢の人々に広まりました。すると、既存の仏教宗派や権力者による弾圧が始まります。これにより1207年 35歳の時、親鸞聖人は越後へ、法然上人は土佐へ流罪とされました。流罪の地、越後の厳しい環境で必死に生きる人々と親鸞聖人は出会い、そんな人々にこそ本願念仏の教えを伝えたいと感じられたのです。この地で、恵信尼公と結婚されました。
流罪から5年、1211年39歳の時、罪を許されますが京都へは帰らず、妻子と共に関東へと旅立ち、以後約20年間関東で教化し、また生涯の大著である「顕浄土真実教行証文類(教行信証)」の執筆を続けられました。
60歳という年齢を超えた頃に、京都へお帰りになります。関東のお弟子さん達に多くの手紙を書き送って仏法を伝え続け、そのお礼としての志により、生活を支えられたのでした。そして「教行信証」他多くの執筆を晩年まで続けられます。
1262年11月28日、親鸞聖人は京都にて90歳でお亡くなりになりました。看取ったのは、末娘の覚信尼公と他の数人です。親鸞聖人の生涯は、煩悩具足の凡夫が本願を信じ念仏申せば、凡夫のまま無上大涅槃にいたる、という念仏往生の道、すべての人間が平等に帰する真宗の道を明らかにされた、まさに「黒衣の聖者」でありました。
覚信尼公は吉水の北に遺骨を改葬し、廟堂を建て影像を安置、それが「本願寺」(大谷本願寺)の起源となりました。 第八世蓮如上人の頃には大きな教団へと発展しましたが、他宗派や大名から弾圧され、本山の地も定まりませんでした。織田信長の本願寺攻略をはじめとして、時の権力者達に翻弄されますが、豊臣秀吉が天下を統一した頃、本願寺は京都市堀川に落ち着きます。教如上人が徳川家康の援助を得て烏丸に「東本願寺」を建立され、以来、西と東に本願寺は分かれて現在に至ります。明治以降、東本願寺の教団は「真宗大谷派」と名のります。常光寺は、この「真宗大谷派」に属しております。
常光寺と新門辰五郎
常光寺には、江戸火消の親分、新門辰五郎が建てた墓があります。幕末の1868(慶応4)年7月23日、江戸幕府 15代将軍・徳川慶喜が謹慎のため、駿府(静岡市)に入ります。そして新門辰五郎が、慶喜の警護のために静岡へやって来ました。新門辰五郎達は勝海舟の世話で、常光寺を宿としました。当時の常光寺第10代住職・賚雲(らいうん)が、 辰五郎を庫裡に、部下たち数十人を、当時寺の門前にあった長屋へ招き入れました。それだけでは足りず御門徒様にもお願いして、あちこちに部下を寄宿させたのです。現在では常光寺境内にある、辰五郎の建立した妻と戊辰戦争で倒れた子分の墓に、多くの歴史好きな方がお参りに訪れます。
辰五郎が伝授した江戸木遣を継承する、静岡市の木遣同好会・東嘉会(とうかかい)が、春秋の彼岸・7月のお盆法要の、年に3度、辰五郎一門を偲ぶため、伝統に則った江戸木遣を披露して下さいます。心を揺さぶる感動的な、素晴らしい木遣です。どなたでも鑑賞にいらして下さい。